作品、かあ。。

Twitterを見てると写真のリツイートとかもよくあります。

ハッシュタグで「#ファインダー越しの私の世界」とか「#私の作品もっと沢山の人に広まれ」とかよく目にするのですが、

これがどうも自分と合わない。

いや、これを使ってる人は全然問題ないし文句も何も一切ないのです。

ただ、自分が使う想像がつかないだけです。

 

撮った写真、自分にとってそれは私のでも誰のでもなく、ただ単に世界だし、ファインダー越した理由はファインダーで確認したいだけでしなくてよければしないし、ただ撮りたくなったものを撮った以上何もなくて。

逆に私成分なんて微塵も考えてません。カメラ成分はある。

言うならば例えばsdQHで撮ったものであれば「センサー越しのSIGMA機の出力」でしょうか。まあ当たり前のことなので、それを書くくらいなら機種名書きます。

 

良くも悪くもあると思うのですが、音楽にしろ写真にしろ、私はどうにも「私の世界」という意識がありません。

ただただ「お、これ良くない??ね!いいよね!」て誰か(or自分自身)と共有したいだけであり、

それは別に自分が作ったものじゃなくてもいいんですが、まあ自分で作ると楽しいし満たされるよね。って具合です。

 

否定、になりそうで怖いけど、この世界を写真にしただけで私の世界と言うほど私のものなのか…という意識もあります。

レンタルビデオ(世界)を自分の愛着のあるデッキ(カメラ)で再生してるような、そんな気分。誰かの作った道具で世界の一部を間借りしてるような。

この感覚は絵の方が薄いんですが、道具を使っていれば完全ではないなあとか、特にデジタルで簡単にできるスタンプとかそういう”機能”を使えば使うほど感じます。

音楽でも音源ライブラリとか、DAWの機能とか。

楽器演奏であればプリミティブな楽器であればまだ私の世界、という感じはします。

楽器も自作であればより言えます。

 

歌、は私の世界だと思います。

声の出し方や技法を学んだらそれは…?とかまでいくともう訳わからなくなるので考えないようにします。

 

ただし、敢えて考えるとすれば、先人の知恵、知識を利用させて貰った上での「私の世界」の「私」というのは、

一種の共同体といいますか、ヒトとして過去からの全ての個体で1つとしての「私」と考えていいのかな、とか。

やっぱ考えると止まらないや。だんだん訳わかんなくなります。

 

まあ自分にとってのベストな言い回しは「#自分が操作した機械の機能」です

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