インタラクティブなコンテンツを見て思うこと。
●これはアートですね。
”みんなの力を合わせて創りあげよう!”的なもの。
センサーや携帯端末&ネットワークなど、様々なモノを使用して、ユーザーに参加させる。
個々の力は非力なものだけど、みんなが一丸となって現れたものは素晴らしい!
…という類のコンテンツは「アート」だと思います。
コンテンツ製作者の表現。その表現を完成させるためにみんなに協力してもらっている。
●面白い?
“面白いか”という点でこういったアートが一番おもしろく感じられるのは「製作者」だと思う。
参加した側は自分の力はちっぽけだ、という気分が強い。
「自分1人がいなくてもまあなんとかなってるよね」と思われた時点で、そういうもんだと思う。
「みんなで協力して私のアートを完成させてください」は、製作者側から体験するユーザー個々を見てない(見てもらってる気がしない)ものになってしまいがち。
勿論その作品が「アート」であれば何も言うまい。
しかし「みんなを楽しませるもの」とするならどうだろう。
●みんなが主役
「ちっぽけがいっぱい集まっておおきな力」は集める側や、第三者が漠然と見るのが面白い。
では参加者が面白いと思うのはなんだろうか。
「いっぱい集まってるけど俺が主役」
じゃないだろうか。
野球の(あまり詳しくないけど)中継やオーロラビジョンとかでたまに観客席が映る。
基本みんな注視はしないけれど、自分や知り合いが映ればそこにいる友人や家族に「ほらほら見て見て!!」とテンションが上がる事が多い。そのとき、その人は間違いなく「主役」を楽しんでいる。
参加者が楽しめる、という視点ではこれがポイントじゃないのだろうかと思う。
オーロラビジョンだと確率は低いけれど、それを体験した人がほぼ全員味わえるようなインタラクティブコンテンツを考えることが出来ればとても強力。
ゲームでも似たようなことを思う。
「遊んでる」「遊ばされてる」という差をどこで感じるか。
一本道でも遊んでる感を感じる作品だってある。自由なようで大仏の掌感漂う作品だってある。
それもやはりプレイヤーが楽しいのかの意識からくる差なのかもしれない。
無双みたいに「とにかく最強の俺」というのも1つの突破口。
自分が最強、という訳でもなく、あくまで全員対等なMMOやソーシャルゲームでも「俺は特別な何かがある」と感じさせるのはまたすごい。
第三者からみるとそれは見てても大して面白く無い。
そういう題材が漫画などで扱われると「そのゲーム通キャラ」は、とにかく世界最強だったり、対等でない扱いがされていたり、という事が多いと思う。
「誰を主役にするか」でデザインは変わってくると考える。
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